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小林英樹ブログ

2010年8月アーカイブ

DSC04317cc.jpgしかし、本当にこの家は写真写りがいい。

たまたまラッキーなことが重なってこの家を入手できた。

感謝しないとね。

あと、何年かこの家にお世話になって、

また新たなところに移っていくのだろう。

風太を写しながら、

いつもこのきれいなおうちが写真に収まっているのを感じるが、

これも、仮の宿りに過ぎないよ。

さて、風太。

今日は少し心配。

おしっこが遠すぎて、心配なので、札幌の友人に相談したところ、

やはり、医者に一回診てもらった方がよいとのことで、

東山動物病院に行った。

触診や「問診」では、特に問題はないとのことだったが、

念のために血液検査をしてもらったら、

なんと!CREAという腎臓の機能を計る数値に異常が見つかってしまった。

正常値の横に接する程度のものだが、心配の種が生じた。

日によっても異なると言うので、

朝、トースターに一時的に隠しておいた甘じょっぱいお魚の煮物が

きれいさっぱり消えていたこともあり、あのせいかも?という救いはあったが、

二週間後にもう一回検査することになった。

あんな元気な風太が!?

急に、極論に走りがちなぼくは、

夭折する風太の姿を想像しちまって、

あどけなさが残る風太が不憫に感じられてしまった。

猫クンは人間の言葉をどこまで解するのかわからないにしても、

ときどき、全部わかっているのかも?

という気になることもある。

今日は、お風呂場で、ぼくらが見ている目の前で水を飲んだし、

おしっこを二回もした。

自分は、「水を飲み、おしっこもちゃんとするから心配はいらないよ。

だから、もう、よそのおうちに連れて行かないで!」

と訴えているかのようであった。

だんだん、こうして、家族の絆が深まっていくのかな。

 

DSC04242cc.jpg3日間、

東京方面に行き、家を空けた。

その間、

風太は昼も夜も、随分と静かだったみたいだ。

ぼくがいないのが寂しかったのだろう、

とぼくは思った。

おととい帰宅した晩、

風太は夜、うれしかったのか、

おだった(うれしくて興奮した)。

それが高じ、

抑えきれずに、野生的な声を発しながら、家中を走り回ったりした。

(突如、野生動物と化すが、本人も抑制できないらしい)

昨日の夜は、横たわるぼくの上に乗っかってきて、

おなかの上で小一時間狸寝入りしていた。

ときどき、尻尾をパタン、パタンとさせながら

 

・・・安心したんだね。

徐々に慣れると思ってはいるが、

勝手に、人間の方は、猫に感情移入して可哀想がってしまう。

実は、こっちが慣れなきゃならないのかもね。

長期間、家を離れても、必ず戻ってきてくれるものである、

そういう安心感が風太に備わってほしい。

やはり、繰り返すうちに習得するものだろう。

 

さて、今日は、風太をほめてあげたい。

それは、2センチほどの小さなムカデがわが家に侵入して

黒い絨毯の上を歩き回っているところを発見、

人間の目では到底見つけ出せない。

風太は、機敏に動き、時にもったいぶって大げさに動いたりしながら、

余裕をもって扱い、見事、退治してくれた。

最後は押しつぶした手のひらを刺されたのか、痛そうなそぶりをしたが、

その後、異常はないので一安心。

ムカデは人間にとって害虫なので、こういう働きをしてくれると助かるが、

立派に成長したムカデに立ち向かえば、おそらく、深刻なダメージを受けるだろう。

名古屋には、街中でも緑がある一帯にはムカデがいるのだ!!!

 

DSC03731cc.jpg

 

今日は高校野球の最終戦。

沖縄、興南高校が圧勝して終わった。

それにしても、テレビの進化はすごいものがある。

ぼくがテレビに出会ったのは、小学校時代、

レンタルで借りていた親戚の家や、隣の家で、プロレスや相撲を見たのが最初だ。

近所中の人が集まって隣の家はにぎわっていたが、

子供心にも、テレビを所有できることにうらやましさを感じながら見ていた。

画像は、いま思えば、ぼけていたり、歪んでいたり、線が入ったりと、ひどいものだった。

それでもそのころは、

遠くで起きていることがリアルタイムで見られる感動を日本中の人々が満喫していた。

街なかにある寺の境内などに設置されたテレビの前は、

プロ野球中継に見入る地域住民で賑わった。

もちろん白黒、走査線が500本ちょっと。

はっきりしない画像に、想像力たくましく、実際の光景を思い浮かべてはテレビ観戦を楽しんだ。

それしか知らないのだから、文句のつけようもない。

やがて、どこの家にも普及し、

そして、ビデオテープのクリアーな再生やカラー中継が始まり、

瞬く間にテレビは鮮明度を増し、

もうこれ以上はよくならないだろうと、素人のぼくは思っていたら、

これまた、あっという間に、デジタル化が進み、気づいたら、その恩恵に浴している。

4年前、大きな液晶モニターを買った時には、

昔の貧しかった時代、

決して裕福ではなかったわが家の光景、父や母の顔などが浮かんできて、

「こんな贅沢してよいものだろうか」という躊躇もあったが、

いまでは、それが当たり前で、

前まで使っていたテレビの画像には、おそらく、耐えられなくなってしまっている。

便利はいいが、こんなことでよいのだろうか。

 

たまたま手元にあったカメラでシャッターを切ったら、

画面から離れていたことと、わずかに手ブレしたのが幸いして、波状の模様が出ていなかった。

壁、障子の向こうに甲子園球場があるように見えて、不思議な写真である。

それで、今日は、風太ではなく、デジタルテレビのことを書くことに決めた。

でも、不便さやサバイバルな生活を人間は忘れてはならないよね。

 

最後に野球の感想。

夏の日差しが照りつける35度以上の球場。

ワンサイドの試合展開にもかかわらず、詰めかけた満員の観衆は減らず、

試合終了後も、誰ひとり席を立たず、惜しみない拍手を送っていた。

ふと、思い浮かんだのは、伝統的な相撲。

力士にはマナーがどうのこうのと散々注文をつけるくせに、

千秋楽、優勝が決まると、そそくさと席を立つ観客が多い大相撲とはここが違うと、

両者の観客の心意気、マナーの差を感じたよ。

優勝力士をたたえ、労をねぎらう、そういう気持ちがないとね。

相撲はすたれても、

高校野球は夏の風物詩として、日本国民に愛され続けるだろうね。

fucc.JPG 2006 11 21 009 cc.jpg

 

享年19歳と1カ月、「道産子猫」くま姐さん。

最後の3年ちょっとを名古屋の地で生き抜いた。

かたや、1歳1か月、「尾張猫」風太。

先祖は、リビア、その後、シルクロード経由で日本に来た後、

一時、先祖が上社(かみやしろ)に居を構えていた柴田勝家の家猫として可愛がられていた

可能性は否定できないが、立証する手立てもない。

ちなみに、上社までは家から歩いても20分くらいの距離、十分あり得る。

くま姐さん、

毛が長く手脚は短く耳は小さい。

和猫独特の愛らしい体型である。

道産子猫の特徴である長い毛、

冬の寒さを経験するうちに、何十代かで進化を遂げてきたのだろうか。

毛が長いことで、名古屋の夏を過ごすのには苦労したことだろう。

亡くなったのも6月、体力の弱まった老猫には酷暑はこたえたに違いない。

顔はまんまるだが、濡れると小さな三角形の骨格があらわになる。

綿毛のようなまんまるい顔はくま姐さんのチャームポイントでもあった。

風太、

毛は短く、毛をかき分けても、皮膚が見えないほどびっしりと毛で埋まっている。

・・・

毛の短さに「反比例」してか、

四肢は長くスマートで、耳は大きく立っている。

驚嘆すべきは、夏の暑さをもろともしない強靭な体力?体質?

1日に飲む水の量は非常に少なく、

おしっこも、1日に1回か2回。

信じがたいのは、おしっこの量ほども水を飲まない!?ことである。

だから、最初は随分心配させられた。

風太が水を飲んでいるところを滅多に見たことがない。

塩分は、だから、危険だよね。

くま姐さんなんか、頻繁に飲むし、よくトイレにも行った。

風太は、夏には強いが、冬はやはり苦手なのかな。

北海道などに連れて行ったら、大変だろうね。

いまになってわかったことだが、

冬、ぼくの電気足温器に体をもぐらせて丸くなっていたのは、本当に寒かったんだね。

もちろん、すぐにスイッチはオフにしたけど・・・

くま姐さんでは絶対に考えられないことであった。

猫がいるところは一番しのぎやすいところ、よく言われることではあるが、

風太は、季節、時間帯によって、

家のあちこちに居心地のよい場所を見つけだしている。

今日のブログは写真なし

 

昨晩11時頃のこと。

和室に残された(いるのに気付かず重いガラス戸を閉められてしまった)風太は

1時間余り蒸し暑い室内にじっとしていた。

普通なら、中から「開けてくれ!ぼくは閉じ込められている!」と

鳴いたり、扉によじ登ったりして盛んにアピールするのだが、

昨晩はおとなしかったため、

どこかで休んでいるのだろうと気に留めなかった。

そのうちに、どこにもいない風太を探し始めた妻が、

奥の寝室にいる風太を発見。

といってもただ部屋の真ん中にいただけだから

取り立ててどうということはないのだが・・・

風太は身をかがめ鼻を畳に近付けて、

何やら畳の上にいる生き物らしきものを追っている様子であったので、

荷物をどかして調べていくと、

座布団の下にヤモリクンが一匹。

ヤモリクンはときどき迷い込んでくるのだが、

その感触や顔、目の表情からぼくはウーパー・ルーパーと名づけている。(可愛いよ)

小さな子どものウーパー・ルーパークン、

散々逃げ回り、多少痛めつけられたらしく、

身じろぎもせず、じっと観念の様子。

最後の力を振り絞り、

ちょろちょろと暗がりに逃げたが、

そこでまたじっとしている。

風太がすかさず追っていくが、もうそれ以上逃げようとしない。

ぼくはそっと捕まえ、

マンションの外の繁みの方に放ってやったよ。

はたして、風太によって与えられたダメージはいかに。

 

今日のブログの中心はここから。

廊下の上で、風太はいままで見たこともない荒い息をし、

心臓が激しく鼓動している。

足(肉球)は風呂場から出てきたときのように汗でびっしょり。

耳は熱く、体温も異常に高い・・・異常な興奮状態。

不安なまなざしで横たわる風太に、

冷えた水で絞った手ぬぐいを載せてあげても

・・・従順に従い、

人間が介抱するのを受け入れている・・・珍しい。

横たわる場所を何回か変えながら、

徐々に平常に戻りつつあったが、

完全に戻るまでには30分はかかった。

無我夢中、興奮したのかな。

姿恰好がトカゲみたいでグロテスクにも見えたのかも。

それに、箱入り息子に育てているので、外界の諸々のことを知らない。

死ぬ思いをして、観念したのは、ひ弱なウーパー・ルーパークンの方だったのに、

追いかけまわしていた風太がすっかり興奮してしまっていた。

ちょっとした事件であった。

ふと、心配になったのは、いままでに二回進入してきたムカデクンのことである。

風太なら好奇心旺盛で追い駆け回り、素手で触り、刺されるかもしれない。

小さな猫の命は大丈夫なのだろうか。

経験者がいたら、教えを請いたい。

 

それにしても、親父にはたくましく野性味を発揮し、

ときに与太公のごとく変貌して親父であるぼくを威嚇するくせに、

なんと、小さな心臓(=優しい心)の持ち主なんだろうね。

そこがまた可愛い。

100818_095246cc.jpg友人、マッツァンティーニ に捧ぐ

 

猫は不思議だ。

ティッシュペーパーの箱に毛が生えたくらいのところに収まるかと思えば、

伸び伸びして体を精いっぱい伸ばせば、1メートル近くもある。

今日の風太はたまたま置いてあった小さな段ボール箱に収まって、

子供っぽい顔で、ぼくがゴッホの画集の写真を撮っているところをじっと見ていたよ。

思わず可愛いから携帯で撮ったら、

すぐに出てきちゃった。

最初は、二本、手が箱の縁から出ていて、その間から顔がのぞいていたんだよ。

姿、格好、仕草まで子猫の頃の風太、すなわち、ふうたんみたいであった。

携帯で手ブレが避けがたく、少しぼけているけど、まあ表情の概要はわかるだろう。

 

ぼくの友人のマッツァンティーニ、

北海道でぼくのブログ見てくれていたんだね。

友達っていいね。

注:マッツァンティーニは愛称であり、彼は日本人である。

イタリアのサッカー選手、マッツァンティーニとは別人である。

DSC01452cc.jpg風太の顔の表情が、成猫になろうとしているのに気づいた。

そのときの顔を写真に収めることはできなかったが、

横たわった姿勢を崩さず、まどろんでいる風太の顔は、

もう、子供ではなく、

分別のある立派な大人の顔であったのだ。

たった一年で、人間でいえば、高校生くらいまで成長するんだね。

ちょっと前に求めたことを、もう求めなくなっている風太を見ていると、

随分急いで生きているなと感じてしまう。

盛んに鳴いて訴える姿や、

 

 

訴えるときに人間の目を見てしきりにしゃべる顔は、

真剣そのものだから、

風太とぼくの間には、自分の子供とはまた違った類の絆が生じるだろうと思う。

人間の子は、成長するに従い、自立を目指す。

親は、それを見つめながら、やがて、子供は、巣立っていく。

親は、必要に応じて後押しをしてあげればいい。

猫は、そうはいかない。

この関係がますます濃厚になって、死ぬまで続くのである。

だから、猫や犬は飼ったら最後まで縁を切ることはできないんだね。

ぼくらから離れて、風太が野原や山林をさまよう姿や、

どこか別のところで他人に飼われている姿を想像することはできない。

ぼくらも風太もそれを望んでないし。

 

この写真は、うたた寝をする風太である。

まだ明けやらぬ早朝から、散々、「起きろ、朝だ、遊んでくれよ」と促すくせに、

人間が起きたころ、悠然とうたた寝を始める。

人間が起きてくれると安心して寝られるんだね。きっと。

SANY00012cc.jpgぼくの友人が旭川に住んでいる。

彼と知りあったのは40年も前のことになるが、

いきさつは機会があったら話すこととして、

彼は中学校の理科の教員である。

休みを利用してバイクで広大な大地を走っている。

その彼が、写真を6枚送ってきてくれた。

どれも大雪山系を背景にした雄大な景色だが、

その中の一枚に彼の愛車(バイク)が写っているのがあった。

彼は、奥さんと一緒に畑で汗を流しているそうだ。

「トマト、キュウリ、スイカ、トウキビ、ピ-マンなんでもござれ」と書いている。

定年後、大地に親しみながら生きていく姿が想像できる。

こういう生き方もいいよね。

うらやましくも感じるよ。

さてこの写真、彼が送ってきてくれたものだが、

(この写真には、残念、バイクは写っていない)

ひろびろとした大地にひまわりの花が咲き乱れている。

北海道のひまわり畑というと、北竜町を思い浮かべてしまうが、

最近では旭川周辺にも広いひまわり畑ができたそうだ。

いずれも、共通点がある。

それは北緯43度40分であり、

南仏アルルの緯度とほぼ同じなのである。

アルル、1888年、ゴッホが《ひまわり》の連作を描いたことでも有名だが、

冬、酷寒の地、旭川が南仏のアルルと同緯度であることは意外である。

真夏の明るい陽光に輝くひまわりの花、

たくましく健康的に、いつまでもその大地に根を張っていておくれ。

(photo. by A.U. @バイクはBMWの1100ccだとのこと) 

DSC02957cc.jpg朝顔・蝉しぐれ・風太

 

ぼくはいまゴッホの作品のデータを新たに作り直している。

といっても、こんな風に、

窓際の畳の上などに画集を広げて複写するといったやり方である。

肝心なことは、レンズがいいこと、焦点が合っていて、手ブレがないことだ。

焦点は自動だから、問題ないが、

三脚を使わずに腕でカメラを固定するのはかなりの熟練が必要だ。

手ブレをしたのでは、どんな名機でもうまく撮れるはずはない。

・・・カメラの性能は、まずまず、並みの上である。

朝日や夕日は不向きであるし、

樹木の緑が強く反射するところもまずい。

また、画面の表面に当たった反射光が強かったりすれば、

それも写ってしまうし、光沢のある本などは厄介だ。

人間の目には同じ明るさに感じられても、

機械は微妙な違いを忠実に拾う。

ルクス・メーターで計測すれば、まず、窓際は不適切である。

だから、このように原始的なやり方で、本やものを置いて明るさを調整する。

今回は、クッションを置いて、図版の面が均一な明るさを作るように工夫をした。

さて、ここで、風太の登場である。

カメラを取りに自分の部屋に戻った数秒の間に、

どこから嗅ぎつけてきたのやら、

ちゃっかり、風太がその上に収まって窓外の景色を眺めているではないか。

人が何かしていれば、必ずやってきて、

人間の出す物音が聞こえる範囲で、横たわったり座ったりしている。

 

蝉しぐれ おやじカメラで ゴッホ撮り (風太)

373cc.jpgMUSEUM(美術館)in the GALLERY(画廊・ギャラリー)

 

札幌にいるころ、ぼくが制作した作品。

2週間の会期のうち、友人に手伝ってもらったけど、

1週間をMUSEUM作りに費やしてしまった。

隣でほかの人が個展やっているのに、迷惑千万だよね。

資材を搬入し、展示スペースにうずたかく積み上げ、

電気のこぎりでガーガー始めたら、

画廊経営者が頭から湯気立てて上がってきた。

それも無理はない。画廊とは作品を展示するスペースなのだから。

展示空間を任されているAさんが、間に入ってくれて、とりあえずは収まったが、

「即座に撤去しろ!」と言われた時にはビビったよ。

一辺が360cmの正方形の床に、

幅90cmの回廊ができていて、

その壁面は二回塗りの塗装が施され、

計50枚ほどの作品が埋め込んである。

天井には照明がついていて、

最後、方丈の空間があり、胡坐(あぐら)をかいて座禅が組めるようになっている。

貸画廊の中に独立した美術館を造る、

発想は、ただ、それだけだが、

あのころのぼくには単純な動機を実行する行動力があったね。

いまも、それは失われていないという自信はあるけど、

やはり、切実感、やらずにはいられない衝動のようなものがいまよりはるかにあった。

この作品、最後は、

埋め込んだ絵の周囲を壁ごと切って希望者に廉価で分け与えたよ。

希望者が多くて、あっという間にさばけてしまった。

いま、札幌の大通りのずっと西の方にある「そら色のたね」

という花屋さん兼喫茶店に、その時の断片が5、6枚飾ってあるかも。

 

札幌に かつてありしが 夢の夢

DSC01482cc.jpg

 

「最近、顕著になってきた風太の傾向」

 

風太にとってみれば、母親は妻、父親はぼくである。

あるいは、・・・のようなものである。

人間も含め、動物にはみなある特徴だが、

男親と女親に対する接し方が大分違ってきている。

いまに始まったことではなく、

徐々にその差がはっきりしてきていることなのだが・・・

一例をあげれば、

妻が長時間家を空けて戻ると、彼女に向かって盛んにしゃべる。

「どこに行ってきたのか」

「なんでぼくを長いことほったらかしにしていたのか」

「寂しかったよ」

「表ではなんか変わったことはなかったか」等々、

ひとしきり甘ったれた声で語りかける。

ところが、ぼくが仕事から帰っても、

あれこれ質問はせず、寂しかったと訴えもせず、

軽く顔をこすりつけてくるだけなのだ。

最近、新たに次のような行動が始まった。

出勤時、ぼくが玄関の扉を閉め、階段を下りていくと、

背後で「ニャーン」「ニャーン」と、間をおきながら妻に言い聞かせている。

翻訳すると、「お父さんがお仕事に行っちゃったよ」であり、

それを妻の顔を見上げながら、何度も語りかけるのである。

その声を聞きたいがために、ぼくはゆっくり階段を下りていく。

風太は、そのあと、駐車場が見える窓に走り、ぼくが視界に現われるのを待っている。

妻いわく、ぼくの後姿を見ながら、ときどき、

「ねえ、ねえ、お父さんがいるよ」とか「お父さんが行っちゃうよ」とか、

振り向いて訴えるらしい。

ぼくは、ときどき振り返り、風太を見つめ、

車に乗っても見ているぼくを、風太もじっと見つめている。

可愛いよ。

DSC02800cc.jpgすっかり立派になって、もらってきたばかりのころがうそのよう。

昼下がり、今日は、30度に達せず、涼しい感じ。

さっきは豪雨が瞬間的にあった。

そのせいもあって、風が心地よい空気を運んできてくれる。

テレビで高校野球観戦をしているわれわれの傍に、風太が来て、

といっても密着せず、そこにいる。

ふと目をやると、風太はゆったりくつろいでいるのだが、

その姿は、もう堂々とした青年。

風格まで備わって、子猫のイメージはどこにもない。

カメラを取りに立ち上がる気配を察し、

閉じていた目を開けるが、脳が半分まどろんでいて、

またおもむろに目を閉じて、

風格に加え、賢そうに見えたりする。

下手すると、人間様(ぼく)が追い越される!

ぼくの職場の愛知芸大キャンパスを住処(すみか)とする、

4歳になった、「捨て(られ)」猫の節子などは、

「一人」日陰で目を閉じて休息しているときなど、

悟りきった哲学者、僧侶の風貌があり、

圧倒的な静寂が支配し、近寄りがたいものがある。

前は気楽に声をかけていたのに、

いまは、心の平穏をかき乱すまいと、躊躇してしまう。

・・・この厳しい娑婆で4年も生きていれば、

ぼくが知らないことを「野良猫」は無数に経験しているだろう。

「およそ、見るべきものは見つ(あとは何をか求めん)」

人間の脳と猫クンの脳と同一尺度で測ることはできないまでも、

所詮、われわれが生きているこの世の本当の姿など、

人間様にだってわからないんだから、

瞑想し、深い世界を感じ取っているのであろう猫クンの内的状態は、

それはそれですごいのだろうと、勝手にぼくなどは思ってしまう。

何も考えてはいないのかも。

だからすごいんじゃないのかな。

 

この人と 出会えてわれは ここにあり

DSC02788cc.jpgぼくの本が8月10日に発売になる。

いままでに何冊か書いたが、

いずれも、歴としたゴッホ論でありながら、

そこには贋作が、ゴッホではない作品(非ゴッホ)として登場した。

今回は、贋作の話については全く出てこない。

さらに、つけ足せば、

一枚も贋作ゴッホが紛れ込んでいない、

正真正銘のゴッホで埋まっているという特色がある。

これは、案外、それだけで希少価値がある。

ぼくは洋書も含めて何十冊ものゴッホ関係の書物をもっているが、

一枚も贋作が掲載されていないものはない。

そういった意味でも画期的であるかもしれない。

もちろん、それは、所詮小林さんの主観、一意見でしかないから、

と無視する方はどうぞって感じだね。

横にそれたけど、新刊本、『ゴッホの宇宙』は、

ゴッホの作品の変遷が非常に分かりやすく説明されているところに特徴がある。

さらに、ゴッホの絵画は、ゴッホの内面を反映した内容になっているので、

作品と当時のゴッホの置かれている環境や、心境がよくわかる。

そういったことを踏まえながら、

ゴッホの作品の展開を通してゴッホのこともわかるように書いている。

だから、初心者にはうってつけだし、

新説が多々盛り込まれているので、かなり詳しい人にも新鮮に読めるようになっている。

教員退官まであと二年半、

それ以降は、さらに本格的にゴッホ研究にのめり込む予定だ。

ゴッホが好んだ種蒔く人のように、

多くの価値ある花を咲かせ、実を結ぶ種を蒔いて、この世をおさらばしたいよ。

まず、読んでみてください。

1800円(税込1890円)は大変だけど、それ以上、得るものはあると確信します。

CIMG0623cc.jpgこんなに暑い日が続くと、前に住んでいた北海道が恋しくなる。

といっても、住めば都、あまり現状に愚痴をこぼしたくはない。

名古屋は名古屋にしかないよさがあり、

それを平素は満喫しながら、ちょっとぜいたくだね(^。^)

この写真は豊平川、幌平橋付近。

札幌は扇状地の上に開けた都市である。

札幌時代住んでいた家はここから数分。

以前は鮭が登ってきたらしいが、ぼくが札幌に行ってからは見たことがない。

この写真のアングルからは札幌の花火大会が至近距離で見られる。

お盆前の確か何回か、土曜日の夜は花火が打ち上げられ、札幌の夜空をにぎわせてくれる。

今晩もあるのかな。

マンションの窓からもよく見えたんだよ。

友人たちが集まったりして、賑わったこともあった。

ドーン・・・パラッパラッ・・・いいね。

遠い昔の記憶だね。

 

風下に 硝煙流れ 花火見えず

DSC02778cc.jpg本棚の上の小さな仏壇。

仏壇と天井との間は10数センチしかない。

そこに上り、隙間にはまり込んで動こうとせず、

もちろん、助けを求めるでもない。

懐かしいな。

小さな時には台所の換気扇やクーラーの上にまで飛び乗っていた。

 

昨晩のこの行為は、ぼくの友人が作品の写真を撮りに来てくれたことに原因がある。

見知らぬ人が来たら、まずは隠れる。

隠れる場所によって、風太の恐怖心の程度が知れる。

今回は、かなり驚いたらしい。

いなくなった風太を探しても、見当たらず、

どこに消えたのかと思っていたら、

「灯台もと暗し」の反対、

頭の上にいて見下ろしていたのだ。

(妻が探し出したが、彼女は発見した喜びを隠せず...)

ぼくが机に上って引き下ろそうとしても

仏壇にしがみついて言うことを聞かない。

まだ、目にはおびえがある。

 

撮影が済み、食事をしていると、

何食わぬ顔で友人も食事するところにフラリ。

(忘れてしまったのか?)

見知らぬものがいるのに気づき、

また、何食わぬ顔で(内心は慌てていても)平然と出て行き、

廊下の向こうで、じっと観察(いや、平静を取り戻していただけなのだが・・・)。

猫というものは、もちろん、個体差はあるにせよ、

家族と親しくしているものは、やがて時間が経てば、

許容し、気を許すようになる。

特に、概して、

声の小さい人、やさしいしゃべり方をする人、ソフトな印象の人は猫に好かれる。

食卓に戻った風太は、

5分もしないうちに、食卓に飛び乗り、

客人の食べ物をねだったりするいつもの風太に戻りましたとさ。

(確かに、友人は優しく、猫好きで、それを風太は見抜いていた!)

今日もまた内弁慶の気の小さな風太、

それでも、いや、それだからこそ可愛いということもあるね。

 

仏壇に 乗りし乗られし ご飯まで

100803_132306ac.jpg《これは、下のブログとでワンセットになっています。》

ここは、小牧長久手の戦いの古戦場跡である。

このあたり一帯で、多くの武将が討ち死にをした。

ぼくの息子のような若武者や、駆りたてられた俄か仕立ての足軽百姓もいただろうし、

まれに、ぼくくらいの死にそこないも、

矢に当たり、首をちょん切られ、あえなく死を遂げたのだろう。

それは、無念の死であることに違いないが、

人類はあまりに多く無念の死を遂げてきた歴史があるので、

そういう死に方もあるのかなと思うこともある。

むろん、もし戦争がはじまり、わが子が徴兵されるようなことがあれば、

運命なんて悠長なことを言ってはいられないし、

ぼくは断固反対するけどね。

わが愛するテラキン(NHK名古屋専属気象予報士)の予想では、

太平洋高気圧が張り出し、暑さが増すはずであったが、

今日は、なぜか乾燥した空気に覆われ、風も適度にあってしのぎやすい一日だった。

真っ青な空に、千切れ雲、綿雲が陽光を反射し、白く輝きながら、ふんわか浮いていてた。

風涼しくてそこはかとなき虫の声々聞こえ(源氏物語)。

いにしえの人々の霊を静めるかのごとく、蝉はしきりに鳴いている。

(その1、その2、いずれも携帯電話のカメラ)

100803_164200cc.jpgいままさに、蝉しぐれ。

地上に這い出して1週間、

あらん限りの声を張り上げ、

この世を謳歌し、

やがて、死んでゆく。

風化しないコンクリートの上に、

上向きに。

昆虫は皆そうであるように

なぜか、必ず上向きに、

世界中どこでも上向きに、

きちんと脚をそろえて、

左右対称に終えている。

家族に看取られることもなしに。

人間のおしまいも、

棺桶で昆虫にならって、

きちんとつつましやかに、

収まっているんだね。

しかし、自然の摂理とはいえ、

しかし、こんなにあっけない命があっていいのだろうか。

まだ、同朋は今を盛りとばかりに、

しきりに鳴いているというのに。

ぼくは、

この蝉の姿を人や風太に重ねて思い、

しばらくそこでたたずんでいたよ。

 

青空に 綿雲ひとつ 蝉死ぬる

                                                                      DSC02732ac.jpg DSC02722ac.jpg  

 

風太、1歳の誕生日。

御馳走にローストビーフ。

はじめロウソクを立てたら怖がったので片付け、

床に置いたローストビーフを夢中で食べたよ。

誕生日などとはしらず、こんなにたくさんのお肉を与えられ、

多分、風太は困惑しただろう。

いつもなら、盗み食いをすれば、叱られるのに、

今日に限って、

「さあ、ゆっくり好きなだけ食べなさい」と言われているのだからね。

ぺろりと片付け、

食卓の上にお座り。

ハッピバースデイツーユーを歌ってあげたら、

なんか満足そう。

自分が祝われていることを感じているようだ。

もう一回歌ってあげたら、結構満足げに、聞いているみたい。

だから、もう一回歌ってあげたよ。

本当は、誕生日なんてわかるはずはないし、

祝いということだってわかるはずはないはずなんだけどね。

食後、大満足の風太は悠然と体を伸ばし、

床の上に横たわっている。

毛並み、毛のつやもよく、ときどきその美しさにハッとすることもある。

よくぞ立派に成長してくれたもんだ。

体が弱い猫クンなら、この時期から医者通いしなければならないところ、

何一つ悪いところがなく健康な風太は、あと、十何回か誕生日を迎え、

場合によっては、ぼくの臨終にも立ち会わなければならないかもしれない。

この際、噛むことをやめさせようかと思っているが、

半分は飼い主、ぼくの責任でもある。

孫が来たり、訪問客が来たりして、

噛んでいいものと思って噛んだりしたら、

慣れない人はおびえるよね。痛いし。

やはりまずいので、

この夏、人を噛むことをやめさせようと密かにぼくは決意している。

それから、追伸。

夏までには泳ぎそうだと期待していたが、

成長するに従い、無謀に水に飛び込むこともなくなり、

水嫌いではないが、泳ぐ方向には展開しなかった。

御報告まで。

 

牛肉 食えば皿には 肉汁が