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小林英樹ブログ

2010年3月アーカイブ

DSC01207cc.jpg風太は袋や狭い空間に収まりたがる。

猫に限らず、動物の本能のようなものだろう。

ビニール袋に入った風太は、宙に持ち上げられ、揺り籠のように揺らされるのが好きなようだ。

三半規管が揺れに耐えられるようになっているのかも。

くま姐さんは、車酔いをして、30分以上乗っていると、吐いてしまう。

それは先天的なものなので、致し方がなく、たまたま風太(今回ぼくらのもとに舞い込んできた猫クン)が乗り物酔いをしないタイプであっただけなのだ。

 

 

WHAT'S NEW?と問われても、

いつでも日々新たなことが起こるわけではないので、

動物の観察記録としてのブログはかなり手ごわいことを最近実感。

日々新しいこととは、

人間と同じ、

そのことをどうとらえるかの新たな発見の有無にあるのかもしれないということに気づき始めている。

 

しかし、今日のブログは風太にとって新しいことだ。

室内でペット(猫)を飼うことで最も困難なことは、

食事時間をどう過ごすかにある。

最近は、バスルーム、寝室などに閉じ込めて食べるか、

人間が寝室に引きこもって、猫を遮断するかである。

3、4日前、ぼくらは煩わしい(ごめんちゃい!)風太をバスルームに閉じ込めて

(本当は辛いよ)食卓で食事をしていたが・・・、

最初、出してくれと鳴いていた風太が、

気づくと、すたすたと歩いてくるではないか!!

たしかに、「ドカン」という音はした。

以前、何度も飛び上がってドアの取っ手にぶら下がり、ドアを開けかけたことはあった。

今回は体当たりをしながら取っ手にぶら下がることによって、向こう側に開いたのである。

たまたま、ではあったが、

風太は思わぬ発見をすると同時に、「特殊能力」が備わってしまった。

その翌日、寝室にこもって食事するぼくらの前に、

今度もドカン!という音とともに、平然とした顔で風太が侵入してきた。

万事休す。

これからまた策を講じないと。

彫刻

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DSC03984cc.jpgわが職場、愛知芸大キャンパスの最もよいトリミングのひとつである。静まり返ったキャンパス、熱く乾燥したレンガの「石畳」と壁、山本豊市さん(1899~1987)の彫刻が時間・空間を超越した世界をあらわにしてくれている。それにしても、この彫刻、かなりすごい!死角がないよ。2008年7月撮影。
DSC01303cc.jpg今日は、大分酔っぱらって帰ったにもかかわらず、ブログを書くことにした。それは、多少親ばか的要素がないとはいえないにしても、風太が「ギューニュー」とはっきり二音節で発音したからである。食料収納庫の扉の前に箱を置き、風太の侵入を防ぐ措置を講じたにもかかわらず、なかでガサゴソ、舌舐めずりをし、「おいしい口」をしていて、奥まった所から出てこようとしない。そこで、ぼくは、おびき寄せるために風太の大好物の名前を出し、「牛乳」と言ったんだ。そしたら、すぐに反応し、結構あわてながら狭いとことから這い出てきたよ。冷蔵庫から牛乳を取り出しかけていたら、床の上で、突如、「ギューニュー」という音を発した!!この音は、もう猫の鳴き声を越えて、人間語になっていた。それを知らせたくて、ぼくは書いたんだよ。ちなみに、最近は少し太り気味。といってもスマートだけど、3.5kgを越えようとしている。くま姐さんは、牛乳を飲むと、18歳になってもなお下痢になってしまったけど、風太はいくら飲んでもそんなことはなく硬いので助かるよ。3.5kgはぼくの20分の1、風太に1日に1合瓶の半分飲ませることは、人間に換算すれば、1日に1合瓶で10本飲んでしまうことになる。おとなしくする道具に食料を与えていると、とんでもないことになるかも。人間はダイエットができるけど、動物は無理だ。悲しい思いをさせたくないなら、いまから用心しなければね。

DSC00846c.jpgのサムネール画像きれい好き

 

見知らぬ猫を見かけても何か親近感を覚える。

猫の姿、格好を見ただけでもわが家の猫に感情移入できるからだろう。

短い(風太は長い方だが・・・)四肢を小刻みに動かしながら歩く様子や

丸まってじっとうずくまっているときの様子などを見ると、思わず、「可愛い!」と感じてしまう。

ぼくは、猫が道路を横切ったり、

街中(よそ様のテリトリー)を小さくなって歩いている姿を遠くから眺めているのが好きだ。

孤独感を漂わせ、

ほとんど目的もないのに、何かせわしなく動いている。

こういう光景は、「のどかな日常」をもっともよく象徴していないだろうか。

そんな時見る猫は、

なぜか、どちらかというと痩せた惨めな雰囲気を漂わせているのが似合っている。

ついでに、猫は脚が短いのが可愛いね。

 

 

猫は直接舌が届かないところの手入れは、間接的に腕を使う。

くま姐さんが耳の後ろ、

つまり、後頭部まで腕を伸ばしてきれいにする仕草をするときには、

近々天気が崩れるという予報(的中率はかなりのもの)でもあったが、

風太の場合、ぼくらはまだそこまで観察をしていないので何とも言えない。

だが、そういうこととは関係なく、

せっせと、舌とお掃除する個所を行き来する腕の動きは、

静中動ありのごとく、

迅速かつ俊敏で、

一途な仕草に没頭する風太に、つい、見とれてしまう。

猫は見ていて飽きないよね。 

DSC01286cc.jpg「小海老」

風太は食料の収蔵庫の扉を、

押したり、

体当たりなどして、

簡単に開けてしまう。

マンションの一室のわが家には、

天井裏に通じる二か所の入り口がある。

一回は、以前書いたが、

風太が上っていってしまい、

埃まみれで後が大変だったが、

無事、呼び戻せたからよかった。

工事の都合上できた角の狭い隙間とか、

ぼくらが想像もできないような危険な場所もあるかもしれないので、

そこに通じる扉には鍵をつけたが、

普段使う、こういった収納庫にはとても鍵などつけるわけにはいかない。

この朝、ぼくらが寝ているときに風太に食べられたもの。

1、小海老

2、乾麺

3、硬い烏賊墨スパゲッティ(たぶん)

その他

猫にしては珍しいであろう、風太の食べるもの。

(くま姐さんの食べていたものが基準になるが・・・)

1、干しぶどう(一回で10粒はぺろりと食べてしまう)

2、生のゴボウ

3、ゆでたセロリ

4、揚げ煎餅

5、韓国海苔

 

朝、布団のなかで寝ているときに、

甘噛みだが、顔を噛んだのではねのけて強く叱ったら、

しまったと思ったのか、

しばらく、凍りついたようにまんまるい目を見開き、

ぼくを見ていたよ。

・・・たまらない。

DSC01299cc.jpgのサムネール画像昨日は、ぼくの研究室の追いコン(修了生を送る会)があった。

学生が5人来たよ。

普段は、わがもの顔にふるまう風太。

ときにぼくらを完全に見下し、

あるいは、虫の居所が悪かったりすれば、

当たり散らし、

突然、憑きものにとりつかれたかのように、

魔性をあらわにし、

「ウー、ウー」唸りながら部屋中を走り回り、

障子を破って駆け上り、

爪を立てて壁や棚によじ登るなどして、

存在感をあらわにしてくれているのに・・・

この日は、借りてきた猫のごとく、

いるんだかいないんだかもわからず、

奥の奥に身を潜め、一向に出てこようとはしない。

二、三度、おっかなびっくり、

あるいは、非常に用心深くやってきたかと思うと、

注目を集めた途端、

一目散に逃げていく。

シャイで、臆病で、あるいは、用心深く、思慮深げで、

いつもの風太とはまるで別物。

くま姐さんなら、

「いらっしゃいませ」と挨拶すると、

客人の荷物や上着のにおいを嗅ぎながら

のっそ、のっそと室内を一周し、出ていく。

「みなさま、ごゆっくりしていってくださいませ」と言ってね。 

 

その晩のこと、

みんなが消え、

バスタブに湯を入れ始めると、

いつもの勇敢な風太に早変わり。

ピョンと飛び乗ったかと思うと、

そのままバスタブに降りた。

水流にはもともと興味があるが、

湯や水のなかに腕を突っ込む快感を覚えてしまった風太は、

蛇口から水しぶきを立てて流れ落ち、泡立つ湯に、

手を伸ばしたりしながら、しばらく遊んでいたよ。

 

DSC04043cc.jpg

四十有余年の年輪を刻み、大地に根を張り、堂々とした風貌の楠。大学内には立派な木々が育っている。講義棟から音楽学部の方向を見渡すと、ひろびろとしたキャンパスが望まれる。新緑の頃、大学は周囲に果てしなく広がる丘の緑に抱きかかえられ、最も輝く瞬間である。
DSC01259_secure.jpgのサムネール画像

似て非なるもの、しかし、これは無視しえないかもよ。ぼくは最近ときどき思うのだが、お猿さんが、いろいろ実験台に使われているけど、脳味噌が大きく、人間の前段階だからかな、言語、道具、習慣、学習、などさまざまな切り口からお猿さんは使われるけど、猿って、知能は高いかもしれないけど、好奇心旺盛で怖いもの知らずなうえ、やたらに挑戦者的である点において、完全に猫君に負けていないだろうか。猫君は、強い欲求のあまり、考える間もなく手が出てしまう。要求に沿って行動が一直線だから、やり直しがなく、やりっぱなし。そういう点で、ぼくはそれが必ずしも人間的な尺度で見たら芸術的表現とは言えないにしても、結果だけで見ると、何か、それに近い香りがするのだ。気づいたらやっていた、あるいは、やらずにはいられない衝動に駆られたからやっちゃった。それって、まかり間違えば大変な事態を招くこともあるけど、一面、まさに理屈を超えている点で人間の表現行為にも通じるところがある。わが家の「希望の星」、風太のやっている行為はそういったものであることをぼくは認めたいよ。崇高な芸術作品ではないにしても、人間が、この「作品」を美しい!と感じるのは自由だからね。しかし、それにしても、このトイレットペーパーは質感をあらわにしながら空気を取り込んで繊細にして美しい!!!制作が終わるとさっさとそこを去って、次の仕事にかかる。局面が変化するとまるで別の顔して他のことに夢中になっている。まるで、ぼくの敬愛するフィンセント・ファン・ゴッホにも通じるところがあるかな。さ、黄色い家の二階で弟に手紙を書かなければならない。

DSC01039cc.jpg上下二枚の写真は、同時期の二つの表情である。上のは、廊下の間接照明用に天井に開けた空間に入り込み、見下ろす風太。下のは、障子の外で日光浴をしていた風太が、障子の隙間から顔を見せたところ。突如、憑かれたような動きをする風太と、掌中におさまって可愛い子猫ちゃんになる風太。人間でもいい意味でも悪い意味でも豹変することはあるだろうし、別に、驚くことではないけど、でも、別人になって目の前に立ちはだかられると、猫でも人間でも戸惑うよね。生き物の神秘的で不思議な面を感じるよね。

DSC01050cc.jpg

 

DSC01021cc.jpgぼくらはご飯を食べるとき、ふうたんが食卓に上がって人間の食事をほしがるので、

たいてい、こたつのある部屋に移動して風太(ふうたん)抜きに食事をする。

最初は、仲間外れにされるのが嫌で、

部屋の入り口で悲しげな声で「ニャン、ニャン」としばらく泣いていて、

その後、あきらめて向こうの方に行く。

(あきらめること・・・くま姐さんにはできなかった。

すなわち、くまはいつまでも外で鳴き、そのうち、声を荒げたりしたのだった)

しかし、これは、やむ得ない処置とはいいながら、

ぼくらとしたら、締め出すのは可哀想で、

風太の懇願する声を聞きながらする食事は喉を通りにくい。

醤油を忘れた、ビールを忘れた、おかわりがほしい・・・

などと台所まで行かなければならないとき、

帰り、風太がついてくる。

そして、風太は、人間が許可するかしないかをその時の空気で判断し、

だめそうであれば、入り口に立ち止まり、

そこから進入しようとはしないのである。

足元を通り抜けてさっと入ってしまう風太は、

いつのまにか、そうすることが親(人間)に歓迎されないことを悟り、

自らの欲望を抑制するようになった。

これには、さすが、賢い猫!と驚きながらも、

その心遣いに胸が熱くなってしまう。

どこまで動物って賢いんだろうね。

けなげな風太を、一刻も早く仲間に入れてあげられるようにさっさと食事を切り上げ、

多少食べられてもいいものを残す段階になると、扉を開ける。

すると、「にゃーーん、にゃーーん」と言いながら、

喜びを殺し、小走りに入ってくるよ。

しかも、そのあと、自分をそのようにした人間を絶対に怨んだりしない。

人間じゃ、こうはいかないよね。

 

写真は、疑似捕獲行為、いざという時に、野生を喪失しない自主訓練を猫君たちはやっている。

それが、周囲の人間に、「ぼくはちゃんとぼくの仕事をしているんだよ」

ということを示威する行動のように見えたりすると、なんか、おかしい。 

DSC01247cc.jpgのサムネール画像夜中、

夜行性の猫君は、

本当は起きている。

人間社会で、

それなりに順応させられてきたんだよね。

だって、夜中、

真っ暗闇で寝ていたら、

たちまち敵に食われちゃうよ。

だから、体臭も、口臭も、何もない。

敵に狙われず、かつ、

獲物を確実にとらえる条件を持っている。

 

ところで、ふうたん。

いまは成長の著しい過渡期で、

大きくなってきたので、

風太とも呼びたいし、

まだまだ子供っぽいので、

ふうたん!とも呼びたい。

 

今日、来客があって、

甘くしていたら、ふうたんは、

ゆでたブロッコリーを5個も食べたよ。

読者の方で、こういう猫がいたら教えてほしい。

しかも、野菜が大好きで、

肉もさることながら、野菜も負けていない。

この前は、ゴボウを生でたくさん食べてしまって、

翌日、未消化なものが、うんちに混ざっていたらしい。

言い方を変えれば、何でもよく食べるということである。

 

さて、写真であるが...

夜中の12時過ぎ、

天井に上ると、さすが、怖い。

下から見上げる自分が、獲物にされて、狙われる怖さ。

高所で、機敏に動きまわっている。

このシチュエーションでは、

戦う前から、

猫にぼくは負けている。

DSC01172ccc.jpg続きです。さっきのは、何を作るともなしに、絵具をいじっているうちに、海のようなかたちが生まれてきてしまった。どこかで海を欲していた、というのはこじつけであるかもしれないが、否定することもできない。しかも、海水浴場のような静かな海や観光地のような明媚な海ではなく、荒れ狂ったもの。あまりに、風景画のようになったから、手前に、左から、藻岩山、円山、三角山、そして、手稲山と札幌にゆかりがある山々を入れてみたが、出来上がってしまった情景を壊す以外の意味はない。ただし、今回は「壊す」ということの解釈を変えてみた。

こっちの作品は、麻布に膠を塗って、吸収性のあるキャンヴァスにした上から、気持ちの赴くまま描いたり、壊したり、消したり、新たな絵具を塗ったり、何だか自信がなくなって、why do I have to do?とか描き込んだりしたけど、それらの時間の流れを残せたような気もするので、家に持ち帰り、飾ってみたよ。ぼくの気持ちを察してくれて何か反応してくれる人が、一人か、何人かいればいいか。いなくても、いいけどね。

DSC01178cc.jpg胸をふくらませ、夢を見、それが幻でも、羽ばたきたい。

誰だってそう願っているのに、なかなかそうはいかず、うつむき加減で生きている。

ぼくは、今回も実感したよ。

本当に、自分の表現したい世界ってないんだってことを。

それでも確かにある、漠然とした表現欲求。

これって、なんなんだろうか。

別に、何もせずに、この世界から消えてしまえばいいということくらい何十年も知り尽くしているのに。

そういうこととは、全く別に、何かしなければならないという要求、欲求。

義務感とは別の、突き上げられる衝動。

62歳になっても、固有のスタイルができず、20歳代の青年のように、そこいらをうろうろしている。

ま、いいや。

この一月半、ぼくは様々な技法を試しているが、容易に「形成されない」世界。

中には、共通性、小林英樹の世界は歴然としてある!と言ってくれる人もいるかもしれないが...

ぼくの中から、他人の評価とか、受け入れ対象とかいった第三者的存在が消えてしまって久しいので、いまさら、他者を意識することはないよ。

絵なんか、ゴッホじゃないけど、いままでに数えるほどしか売れていないんだし。

いまは、粉末顔料を中心に、膠、テンペラ、スタンドオイル、ベネチアンテレピン、合成樹脂などで溶いたものをあれこれ試している。

結局、リフレッシュはできず、いままで20数年間立脚していた地平、大地に引き戻されてしまう。

繰り返し、人は日常の時間を繰り返し、そこに、昨日とは違ういまを見出そうとしている。

それを、ぼくは、造形的にやっているだけ。

だから、つまんないといえばそれまで。

いいんだよね、それで。