「石膏室横の池の魚たち」で最後に「荘子」の話を紹介した。その後、記憶を確かめるために、札幌から持ってきた段ボール箱を開き、『荘子の哲学』(大濱皓・勁草書房)で確認してみた。
すこし、ニュアンスが異なるので、そのまま引用します。
同書9頁「序言」より。
「荘子と恵施が濠という川の橋の上を逍遥したときの会話である。
荘子・・・白魚が水面にでてきて、いかにもゆったりと泳いでいるではないか。あれが白魚の楽しみなのだ。
恵子・・・君は魚ではない。魚の楽しみなどわかるものか。
荘子・・・君は僕ではない。僕には魚の楽しみがわからない、ということがわかるものか。
恵子・・・なるほど僕は君ではないから、確かに君のことはわからない。君はたしかに魚ではないから、君に魚の楽しみがわからないのはたしかだ。
荘子・・・根源にたちもどろうではないか。君は〈おまえにどうして魚の楽しみがわかるものか〉といったが、そのときすでに、僕がわかっていることを、君は十分知っていて僕にたずねたのだ。ぼくはこの川のほとりで、その道理がわかった。(秋水篇)」
荘子の地平は広大だ。
「生を説(よろこ)ぶを知らず。
死を悪(にく)むを知らず。
(荘子、大宗師篇)」
そう、生きていることと滅びてゆくことはそもそもひとつだし、もともと無の海の上に、たまたまぼくらはかたちを有して浮かんでいるだけだ。
高校時代から浪人中、ぼくは老荘思想に安堵感を覚えた。
写真は、近鉄奈良駅近くのアーケード街にあるお好み焼屋さん。
古美術研究授業に携わっているとき、同僚が教えてくれたうまい店。
「僕は君ではないから、それがうまいことに同意できない。」
なんてこと言っていないで、奈良に行ったら一度食べてみてね。
それはそうと、ぼくは、同僚がうまそうに食べるのを見て、
デラックスモダン焼きではなく、そば玉にすればよかったと後悔した。
そばのかたいかみ心地と、ソースに絡まれたそばの組み合わせがよい。








